序文003外科手術は合理的な治療方法だと今でも僕は信じている―― およそ25年位前,僕は国立がん研究センター東病院の外科レジデントで,僕の手術に対する基盤的な考え方や判断思考は,主にこの3年間にその土台が築かれたと思う。毎日毎日行われるエキスパートの先生方の開腹手術を見ながら,自分と何が違うのか探した。 左手の臓器の持ち方,組織の引っ張り具合やその方向,電気メスの焼き方やその動かすスピード……。 僕ら若い外科医は術者の背後からその手術を盗み見ながら,十分とはいえない情報量のなかから先輩の手技を自分のものにしようともがいていた。外科医としてのスキルを高めるために精進し,外科の未来を疑うことはなかった。しかし当時,前向きな若手外科医に対してナイフのような言葉が突き刺さる。 「将来,がんの手術はなくなる」 このテーマが病院の飲み会の席でよく話題になっていた。今の東病院も変わりないが,当時も内科の諸先輩方は総じて「将来,がんを薬で治す」ことに並々ならぬ精力を注いでいた。お酒が入ったある偉い先生からこんなことを言われたことを思い出す。 「外科医は木こりみたいなものだよな……。そこに立っている木を切り続ける,そんな単純な繰り返し作業に,がん治療の未来はない」 当時,僕はお酒の力に任せて偉い先生に反撃を試みたが,彼らを説き伏せるほどの知識も経験も発言力もなく,議論の結末は毎回惨敗だった。 そのような議論をしていた時代から二十数年経過したが,僕ら外科医は今なお「そこにあるがん」を切り続けている。 そして外科医はがん治療の主役であり続けている。さらにいうと外科手術は切り続けるだけでなく,見事に進化を遂げてきた。 近年,薬の治療は大きくがん治療に貢献した。特にこの10年,がんに関連した遺伝子の変異に応じた適切な化学療法が選択される時代になった。また,術前に抗がん剤や放射線療法の適切なコンビネーションを模索することにより,がんを極限まで消滅させ,ときに手術すら回避できるようになってきた。しかし,抗がん剤は長い治療期間や少なくない治療費用を要する。さらに抗がん剤のみで100%がんを消滅させることは極めて難しく,正常細胞への負の効果は今なお解決できていない。では,外科手術は? 手術は数時間のうちにがん病巣を100%切り取り,一度の手術で患者さんの体からがん病巣を除去することができる。昔の手術では,大きな開腹の傷を避けることはできなかったが,内視鏡手術の到来により,手術の傷は小さく,それに伴う痛みも軽減された。 ただそればかりでなく,内視鏡手術がもたらした最も大きな功績の一つは「手術に情報が導入されたこと」だと僕は思う。 かつて僕が若かりし頃,直腸癌の手術は苦痛だった。助手として狭い骨盤腔を術者の先生のために視野展開することが若い医師の役割で,ときに10時間以上そのようなハードな肉体労働が課されていた。また,手術しているところをのぞき込むとよく叱られた。
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