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偽者論
健康だけど"病んでいる"。パーソナリティを巡る旅へようこそ
評者:小林聡幸(自治医科大学精神医学講座教授)
曲者の才人による臨床閾値下パーソナリティ障害の当事者研究
上野駅は田舎者でもよく知っているスポットだぞと思いながら、公園口を出ると見当識を失った。そこには信号があって、横断歩道を渡ってまっすぐ行けば左手に東京文化会館を眺めながら上野公園に入っていく光景があるはずだったが、改札の外には歩道スペースがずっと広がっているだけだった。ワタシハイッタイドコニイルノデショウ。
「何言ってるの。公園口前は2年前からこうじゃないの」とミチコに言われてわれに返る。ミチコって誰だ? ゆきずりのうえに架空の女に言われて、そういえば2 年より前からタイムスリップしてきたのだと思う。タイムスリップの要因はコロナ禍だ。気を取り直して上野公園のへりを巡って湯島まで歩く。目的地は金原出版。今回出版した『キャラクターが来る精神科外来』の編集の礼を述べたり新たな企画の相談をしたりしていると、ナカダチさんが「よろしければ」と持ってきてくれたのがこの本(COI申告)。
ナカダチさんって誰だ? いや担当の編集者さんだよ。同社サイトでタイトルだけは見ていたが、何の本やらわからぬままスルーしていた。『偽者論』などと言われても、こちとら心には響かねえ。てやんでえ、偽者上等でえ。著者は30 代の精神科医で、すでに医書がいくつか、詩集が3 冊という、世間ではこういうのを才人という。ところがこの才人、自分自身がどうしようもなく偽者だという意識を持っていた。それが時々、これは本物だと思う人物に出会う。どっこい、その「本物」は実のところ「本物感」を駆使して世間と向き合う術を持った、自分と同類の「偽者クラスタ」だと気がつくというところから話が始まる。周囲と合わせる能力が高く、それゆえに合わせすぎてしまう自分を、一応同類もいるだろうということで「偽者クラスタ」と括って分析していくが、語り口は冒頭にパロったようなエッセイ風のルーズで、スマホ画面を模したコラムを配し、何より表紙がピンクラメ、のように見えるが玉虫色に光っているという寸法。このカバーの偽者感はネットで書影を見てもいまひとつなので、ぜひ書店で手に取っていただきたい。レジに持っていくのをちょっと躊躇うから。
「ほらほら話が逸れているわよ」と妻が言う。いや、私に妻はいるが、妻は私の書き物を横から眺めて意見を言ったりはしない。そもそも私のしていることになど関心はない。偽者クラスタは優れた「世間カメラ」を持っていて、他人からどう見られているかを敏感に察知してしまう。察知しても気にかけないのならどうということはないが、世間カメラはそれに従って社会に合わせることに腐心する性向と対になっているらしい。偽者クラスタは世間カメラを意識することで社会に適応しているが、社会に過剰適応することにも世間カメラが働くので、過剰にならないようにしながら、相手の振る舞いに敏感に反応する、などという入れ子構造の記述は、この人たちは単なる社会適応のよい人たちというわけではないということを示す。合わせすぎない程度にまできっちりと合わせてしまう人たちなのだ。
次に相手に合わせる能力の話になるのだが、それが「周波数」。相手が666 Hz で来れば、あやまたず666 Hz、獣の数字で応えることができる黙示録。そして周波数合わせには「誘惑」と「防御」の機能がある。「誘惑」は相手に気に入られることであり、「防御」は相手からの攻撃を予測・回避することである。その周波数について具体的にいうと、声のトーンやテンポ、「間」、承認の雰囲気だという。これもまた、相手に合わせすぎて自分がなくなってしまう類の論点である。
そう、十数年か、あるいはもう二十年くらいたつか、外来に来る20 歳前後の女性患者で、他人からどうみられるか気にしすぎて、他人に合わせているうちに自分というものがなくなってしまった、といった訴えをする人たちが少なからずいることに評者も気づいた。その後、あまりそのような言い方は聞かなくなったのだが。当たり前すぎてもう誰も訴えなくなってしまったのか。
その次が「距離」。近づきたいが、近づくことによって相手に見捨てられたり取り込まれたりする恐怖が出現し距離を再びとる。再び距離を取ることを学んだ境界例みたいなものか。そして、「擬態」。どうやら問題にしているのは同調性の高い人ではなく、不幸にも高度な同調性を身につけてしまった非同調的な人のようだ。そして「諦念」と続く。
毎章、エッセイとも小説ともつかぬ文章で入っていくが、著者本人が偽者クラスタだというのもフィクションであって、自分のことを述べるような振りをして一群の患者のことを記述しているのではないか。いや、待て。尾久守侑なんてのがそもそも架空の人物に違いない。実はこの本、ナカダチさんの書いた贋作なんじゃないだろうか。
「そういう病気の話じゃないに」と後ろからばあちゃんが言う。いや、私にばあちゃんはいるが、もう、かれこれ40 年くらいずっと死んだままなのでそんなことは言わないだろう。でも著者はこうした期待を裏切ることなく、タイムループして夢オチを仕掛けてくるので、目が醒めて「解題」が始まる。その「解題」の解題をここでやってしまっていいのかと思うが、偽者クラスタはスキゾイドという議論に持っていくのである。スキゾイドといっても対象関係論あたりのスキゾイド機制であって、自己愛のようでもあるが、ヒステリーのようでもあるが、と意外とあっさりと参考文献を並べていく。必ずしも偽者クラスタはスキゾイド・パーソナリティではないし、ましてやDSM-5の統合失調質パーソナリティ障害のことでもない。空気を読む圧力が、流行りのhighly sensitive personの苦悩や、それが読めない人である発達障害について注目される世相の原因ではないか、コロナ禍がさらに押している種々のオンライン化が時間的・場所的境界のない体験を増やしスキゾイドを人工的に生み出しているのではないかといった指摘と、であるからスキゾイドについてもっと考えてみていいのではないかというのが本書のキモだ。
ところが解題で本書は終わらない。ことほどさように著者は曲者だ。やはりこれを書いたのはナカダチさんだったのではないか。いや、ナカダチさんって実在するのか?
「でもさ、どうしてこの本を病跡誌で書評するのさ」とミチコが言う。それはね、それなりにパトグラフィーだからだよ。
ミチコって誰だってばっ。
<日本病跡学雑誌 第104号、2022年12月15日発行、日本病跡学会、p67-8より許可を得て転載>
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曲者の才人による臨床閾値下パーソナリティ障害の当事者研究
上野駅は田舎者でもよく知っているスポットだぞと思いながら、公園口を出ると見当識を失った。そこには信号があって、横断歩道を渡ってまっすぐ行けば左手に東京文化会館を眺めながら上野公園に入っていく光景があるはずだったが、改札の外には歩道スペースがずっと広がっているだけだった。ワタシハイッタイドコニイルノデショウ。
「何言ってるの。公園口前は2年前からこうじゃないの」とミチコに言われてわれに返る。ミチコって誰だ? ゆきずりのうえに架空の女に言われて、そういえば2 年より前からタイムスリップしてきたのだと思う。タイムスリップの要因はコロナ禍だ。気を取り直して上野公園のへりを巡って湯島まで歩く。目的地は金原出版。今回出版した『キャラクターが来る精神科外来』の編集の礼を述べたり新たな企画の相談をしたりしていると、ナカダチさんが「よろしければ」と持ってきてくれたのがこの本(COI申告)。
ナカダチさんって誰だ? いや担当の編集者さんだよ。同社サイトでタイトルだけは見ていたが、何の本やらわからぬままスルーしていた。『偽者論』などと言われても、こちとら心には響かねえ。てやんでえ、偽者上等でえ。著者は30 代の精神科医で、すでに医書がいくつか、詩集が3 冊という、世間ではこういうのを才人という。ところがこの才人、自分自身がどうしようもなく偽者だという意識を持っていた。それが時々、これは本物だと思う人物に出会う。どっこい、その「本物」は実のところ「本物感」を駆使して世間と向き合う術を持った、自分と同類の「偽者クラスタ」だと気がつくというところから話が始まる。周囲と合わせる能力が高く、それゆえに合わせすぎてしまう自分を、一応同類もいるだろうということで「偽者クラスタ」と括って分析していくが、語り口は冒頭にパロったようなエッセイ風のルーズで、スマホ画面を模したコラムを配し、何より表紙がピンクラメ、のように見えるが玉虫色に光っているという寸法。このカバーの偽者感はネットで書影を見てもいまひとつなので、ぜひ書店で手に取っていただきたい。レジに持っていくのをちょっと躊躇うから。
「ほらほら話が逸れているわよ」と妻が言う。いや、私に妻はいるが、妻は私の書き物を横から眺めて意見を言ったりはしない。そもそも私のしていることになど関心はない。偽者クラスタは優れた「世間カメラ」を持っていて、他人からどう見られているかを敏感に察知してしまう。察知しても気にかけないのならどうということはないが、世間カメラはそれに従って社会に合わせることに腐心する性向と対になっているらしい。偽者クラスタは世間カメラを意識することで社会に適応しているが、社会に過剰適応することにも世間カメラが働くので、過剰にならないようにしながら、相手の振る舞いに敏感に反応する、などという入れ子構造の記述は、この人たちは単なる社会適応のよい人たちというわけではないということを示す。合わせすぎない程度にまできっちりと合わせてしまう人たちなのだ。
次に相手に合わせる能力の話になるのだが、それが「周波数」。相手が666 Hz で来れば、あやまたず666 Hz、獣の数字で応えることができる黙示録。そして周波数合わせには「誘惑」と「防御」の機能がある。「誘惑」は相手に気に入られることであり、「防御」は相手からの攻撃を予測・回避することである。その周波数について具体的にいうと、声のトーンやテンポ、「間」、承認の雰囲気だという。これもまた、相手に合わせすぎて自分がなくなってしまう類の論点である。
そう、十数年か、あるいはもう二十年くらいたつか、外来に来る20 歳前後の女性患者で、他人からどうみられるか気にしすぎて、他人に合わせているうちに自分というものがなくなってしまった、といった訴えをする人たちが少なからずいることに評者も気づいた。その後、あまりそのような言い方は聞かなくなったのだが。当たり前すぎてもう誰も訴えなくなってしまったのか。
その次が「距離」。近づきたいが、近づくことによって相手に見捨てられたり取り込まれたりする恐怖が出現し距離を再びとる。再び距離を取ることを学んだ境界例みたいなものか。そして、「擬態」。どうやら問題にしているのは同調性の高い人ではなく、不幸にも高度な同調性を身につけてしまった非同調的な人のようだ。そして「諦念」と続く。
毎章、エッセイとも小説ともつかぬ文章で入っていくが、著者本人が偽者クラスタだというのもフィクションであって、自分のことを述べるような振りをして一群の患者のことを記述しているのではないか。いや、待て。尾久守侑なんてのがそもそも架空の人物に違いない。実はこの本、ナカダチさんの書いた贋作なんじゃないだろうか。
「そういう病気の話じゃないに」と後ろからばあちゃんが言う。いや、私にばあちゃんはいるが、もう、かれこれ40 年くらいずっと死んだままなのでそんなことは言わないだろう。でも著者はこうした期待を裏切ることなく、タイムループして夢オチを仕掛けてくるので、目が醒めて「解題」が始まる。その「解題」の解題をここでやってしまっていいのかと思うが、偽者クラスタはスキゾイドという議論に持っていくのである。スキゾイドといっても対象関係論あたりのスキゾイド機制であって、自己愛のようでもあるが、ヒステリーのようでもあるが、と意外とあっさりと参考文献を並べていく。必ずしも偽者クラスタはスキゾイド・パーソナリティではないし、ましてやDSM-5の統合失調質パーソナリティ障害のことでもない。空気を読む圧力が、流行りのhighly sensitive personの苦悩や、それが読めない人である発達障害について注目される世相の原因ではないか、コロナ禍がさらに押している種々のオンライン化が時間的・場所的境界のない体験を増やしスキゾイドを人工的に生み出しているのではないかといった指摘と、であるからスキゾイドについてもっと考えてみていいのではないかというのが本書のキモだ。
ところが解題で本書は終わらない。ことほどさように著者は曲者だ。やはりこれを書いたのはナカダチさんだったのではないか。いや、ナカダチさんって実在するのか?
「でもさ、どうしてこの本を病跡誌で書評するのさ」とミチコが言う。それはね、それなりにパトグラフィーだからだよ。
ミチコって誰だってばっ。
<日本病跡学雑誌 第104号、2022年12月15日発行、日本病跡学会、p67-8より許可を得て転載>
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