キャラクターが来る精神科外来

漫画/アニメ/映画の登場人物の心理を分析、症候を徹底精査 !

著 者 須田 史朗 / 小林 聡幸
定 価 2,750円
(2,500円+税)
発行日 2022/09/30
ISBN 978-4-307-15074-3

A5判・208頁

在庫状況 あり

ルフィはADHD? エヴァのアスカはパーソナリティ障害!?
アニメや漫画・映画などの物語、歴史上の人物がもし精神科外来に訪れたら、どのようにアセスメントし、診断を下すかをテーマに全38のキャラクターを精神分析。自治医科大学の医学生の診断レポートをもとに、教員が真面目に考察してみた。精神科における診断のプロセスを楽しく学べる一冊。精神科医のみならず、心理学に興味のある方にもオススメ。
Chapter1 キャラクターと作品世界とそれを診断する視座
キャラクターは作品世界に立つ リムル=テンペスト(転生したらスライムだった件)
どんなにぶっ飛んだ内容でも信じることから診察は始まる サラ・コナー(ターミネーター2)
その想像力の欠如はどこにあるのか 里見健一(サトラレ)

Chapter2 注意欠如・多動症
診断基準みながらの症状さがしは誤診のもと メロス(走れメロス)
毎回0点というのは不注意優勢型ADHDだけでは説明できない 野比のび太(ドラえもん)
衝動性が高く類まれなる音痴という設定は何を意味するか 剛田武(ジャイアン)(ドラえもん)
ADHDのイメージアップへの貢献は計り知れない モンキー・D・ルフィ(ONE PIECE)
クセが強いということは診断に該当するか 平沢唯(けいおん!)

Chapter3 自閉スペクトラム症
症状の出現と推移をみきわめる 大正天皇
二重に特別なギフテッド L(エル・ローライト)(DEATH NOTE)
ASDを取り巻く優しい世界 野口笑子(ちびまる子ちゃん)
浮きこぼれの5軍男子 津崎平匡(逃げるは恥だが役に立つ)
鬼化することで何が生じるか 童磨(鬼滅の刃)

Chapter4 パーソナリティ障害
サイコパスと正義のミカタ 夜神月(DEATH NOTE)
慢性的空虚感の代償 りりこ/比留駒春子(ヘルタースケルター)
弱く傷つきやすい自己を尊大な自己で覆い隠す 惣流・アスカ・ラングレー(新世紀エヴァンゲリオン)
サイコキラーって何? サイコパスって何? 蓮実聖司(悪の教典)
操作的診断カテゴリーより精神分析的解釈 ジョン・ゲイシー

Chapter5 心的外傷後ストレス障害・解離性同一症
診断基準で「こころ」は理解できるか 先生(こころ)
PTSDじゃ戦えない 杉元佐一(ゴールデンカムイ)
パニックかPTSDか 南波日々人(宇宙兄弟)
別人格の存在は明らかではない クレイ・ジェンセン(13の理由)
そもそも主体がないんじゃ? ロールパンナ(それいけ!アンパンマン)

Chapter6
神経症とその周辺
状況と言動のつりあいから適応障害の範疇を診立てる ジョバンニ(銀河鉄道の夜)
失立失歩の女王 クララ・ゼーゼマン(アルプスの少女ハイジ)
「心を閉ざす」の医学的説明は? 栗花落カナヲ(鬼滅の刃)
何となく強迫のにおいはするけれど ニコ・ロビン(ONE PIECE)
緘黙か失声か 成瀬順(心が叫びたがってるんだ。)

Chapter7 うつ病・双極性障害
耳を切るような病気とは何だろうか フィンセント・ファン・ゴッホ
医療の限界状況で診断は可能か 播磨薫子(人魚の眠る家)
政治家に抑うつリアリズムを ウィンストン・チャーチ
男らしさと老いること アーネスト・ヘミングウェイ
戦国武将と神と宇宙と 織田信長

Chapter8 統合失調症
神の啓示は幻聴か、それとも ジャンヌ・ダルク
ドラマで統合失調症とされてるからって 近藤直弼(半沢直樹)
病的体験の裏に抑圧された性的欲動を読む ニナ・セイヤーズ(ブラック・スワン)
作品に現れる無意識 エドヴァルド・ムンク
『虎になること』が意味するもの 李徴(山月記)
コロナんでもただでは起きぬ

 人からいい評価をされるというのは、つまり褒められるというのは嬉しいものであるが、悪い評価は願い下げである。傷つく、落ち込む。担任の先生に呼び出された昔日から、医者になって就職したのち院長だの教授だのに呼び出されるようになっても、エライ人から呼ばれるのは、イヤだ。たいてい褒められない。だから権威ある人の前には行きたくない。
 診断されるということ、医者という権威のもとで医学的に診断されるということは病気を持っていると評価されることである。上記のような意味での悪い評価と同じではないが、病気と評価されるのはありがたくないこともまた確かである。「健康診断」というのがあるではないか、といわれるかも知れないが、健康は診断できない。それは悪魔の証明というやつであり、「健康診断」は想定されるいくつかの疾患がないようだといっているに過ぎない。
 だから、誰しも医者から診断はされたくないとふつうは思っているだろうし、ときにマスコミが著名人を診断するようなコメントを医者に求めることがあるけれども、そういうのは嫌われることが多い。特に精神科の診断において顕著なのは、精神疾患があるとされることがあたかも人格攻撃であるかのようにとらえられるからで、そう感じること自体が精神疾患への偏見に他ならないのであるが、自分の好きな著名人に精神科医が診断を下したりすることに非常な不愉快感を覚える人も多いようだ。偏見ですけれどね。
 このように何かと嫌われる診断だが、診断は医療のまさに入口に位置する非常に重要な営みである。ナニナニ病だと断言できなくとも、だいたいこのあたりの疾患だとか、現状はこんな状態になっているようだとか、何らかの診断的な見通しがないと治療は始められないからである。だから、医学教育においても診断が枢要なのは論を待たない。
 しかしその教育に横槍が入った。

 話は2020年4月に遡る。われわれの属する自治医科大学においても、いつも通り新学期が始まった。もっともすでに暗雲は垂れこめ始めていたのだが。
 2019年暮れに中国は武漢で新型のコロナ・ウイルス(SARS-CoV-2と名づけられた)による集団感染が発生し、2020年1月15日には日本で最初の患者が報告された。2月に入って横浜港に停泊したクルーズ船内での集団感染に耳目が集まるうち、ヨーロッパ、次いでアメリカで感染拡大し、日本でも3月下旬からいわゆる感染第1波が始まった。政府は4月7日に7都府県に緊急事態宣言を「発出」し、4月16日に対象を全国に拡大、ゴールデンウィーク明けまで継続された。
 新学期が始まって1週間ばかりの自治医科大学でもこれを受けて学生の講義や実習をすべてオンラインに移行することが要請された。急遽、オンライン用教材を作り、さて、実際に患者と接する機会については何をもって代用しようかということになり、須田教授から、物語や歴史上の人物を精神科診断させるレポートはどうかという提案があった。ついでに医学生の診断をまとめたら本にならないだろうかというのだ。
 当初、私は難色を示した。1学年120人ほどのレポートに目を通すこと自体は教員としてイヤとは言えないが、学生がこちらの知らないキャラクターを提示してくる可能性が高く、知らないキャラを学生が正しく評価しているかどうかは判断が困難で、レポート評価が相当に難事業のように思われたからである。しかし考えてみると実際の患者を前にして診断を検討する代わりとしてなかなかうまい方法であることは確かだし、学生たちがどんなキャラクターを出してくるか見てみたい気がしてきたのである。

 精神科の診断において重要なツールにDSMがある。アメリカ精神医学会による『診断と統計のためのマニュアル(Diagnostic and Statistical Manualof Mental Disorders)』であり、初版は1952年だが、1980年の第3版、つまりDSM-III以降、日本の臨床にも浸透し、最新版は2013年の第5版、DSM-5である。
 他方、WHOの国際疾病分類ICDも用いられており、現在使われているのはICD-10 だが、すでに2018年にICD-11が公表されており、和訳と日本への適用の最中にある。
 これらには疾患の診断基準が掲載されているわけだが、症状が列挙され、いくつ以上の症状があり、これこれの条件を満たせば診断されるなどというように設えられている。精神疾患は原因が特定されていないものが多く、検査でこの値が出ればこの病気とわかるような指標、つまり生物学的マーカーもほとんどない。先入見なく誰もが一定の診断に至ることを目指して作成されたのがこれらの診断基準で、仮説に留まるしかない原因に参照することを慎んだがために、表面的に症状をとらえて当てはまる数を数えるという形にならざるを得ない。そうすると誰もが当てはめて診断できるような表ができあがる。DSMも誰もが当てはめてよいとは書いておらず、経験ある精神科医が用いるべしとしているのだが、安直に当てはめられるようにできているのも事実である。
 たとえれば、誰かが泣いているのは、微妙な泣き方をする人は例外として、かなり明らかだ。診断基準の一項目にしたら間違いなく誰もが「泣いている」と判断可能だろう。だが、悲しくて泣いているのか、悔しくて泣いているのか、嬉しくて泣いているのか、本人にも何だかわからないまま泣いているのか、外から観察していても推測以上のことはできず、誰もが同じ診立てをするとは限らない領域に入る。診断するということは「泣いている」という現象を拾いつつ、その背景にありえる不確実な患者の内面を、精神の生理学を、異常心理学を、あるいはその実存を推し量って、有機的な全体像をとらえるところまで行かねばならない。ところが診断基準の表はそんなことにまでは言及せず、ただ当てはめてくれとばかりにそこにあるのである。
 キャラクターの診断演習はただ当てはめるだけではすまないという診断の機微に触れる機会になるだろう。

 感染第2波が収まりつつあった夏休み明けからは、対面授業と病棟に入っての臨床実習が再開された。しかしキャラクター診断演習のレポートは継続した。4年生の必修の実習のほか、4月からの新6年生と翌年1月からの5年生の選択制の実習の学生にも同じ課題を課し、選択制の学生には1人2編を書いてもらうので、150編超のレポートを得る算段である。
 せっかく苦労して書いてくれるのだから、できれば全員のレポートを本にまとめたかったが、さすがにそれでは分厚くなりすぎる。また同じキャラクターの診断を複数の学生が提出してくることは容易に想像がついたし、取捨選択せざるを得ないことは明らかだった。幸いこの、“ コロナ禍でもただでは起きない” 企画を金原出版で引き受けてもらえることになったが、書籍として上梓する以上、学生のレポート部分も読みやすく推敲あるいは改変する必要があり、書いてくれた学生の署名を入れることも断念した。レポートを提出して本書制作に協力してくれた学生諸氏のご芳名は別に一覧で掲載させていただく。
 教科書のように診断毎にまとめたほうが読みやすいのはわかっていたが、学生が取り上げるキャラクターにさまざまな診断がまんべんなく網羅されてくるだろうとは到底思えなかった。案の定、学生の診断は発達障害やパーソナリティ障害が多かったが、それはそう診断できそうなキャラクターが巷にあふれているということでもあろう。
 そこで、われわれが妥当だと思う診断ではなく、学生が診断してきた病名毎にまとめてみることにした。たとえば、本書の「統合失調症」のChapterでは、学生がそう診断してきたというだけで、ほぼすべて統合失調症診断を否定する議論となっている。ある意味、裏側からの診断であって、統合失調症ではないというキャラを検討することで、統合失調症の何たるかを炙り出すことにならないかという期待がある。
 そうして病名でまとめたものの、教科書のように網羅的にはなっていない。神経発達障害群からは、「注意欠如・多動症」と「自閉スペクトラム症」を独立のChapter にした。「神経症」はDSM-5には採用されていない病名だが、従来の広義の神経症に該当するであろういくつかの診断名を「神経症とその周辺」としてまとめた。心的外傷後ストレス障害と解離性同一症は多かったので1Chapterにまとめて独立させた。認知症は「大好きなあなたのことを忘れてしまう」類の映画やドラマがいくつもあったと思うが、ひとつのChapterを組むだけのレポート数がなく、ちょっと残念である。
 またレポートと教員のコメントの羅列だけではいささか面白くないので、学生との架空の対話を間に配した。これも学生のレポートがもとになっているので、アクチュアルではないがヴァーチャルな対話である。

 いまだ実際の患者と触れる機会があまりない学生たちだが、座学で学んだ知識と持ち前の知力を振り絞ってレポートに取り組んでくれた。それぞれが力作であった。
 しかしながら、学生のレポートで気になったのは、キャラクターがいて、作品世界があって、そして診断する自分がどこに立っているかという自覚がないものが少なからずあったことである。これについてはChapter1で取り上げたが、桃太郎が桃から産まれたと思っているお爺さんとお婆さんは認知症で妄想があるみたいな話になってしまう。
 もうひとつは作品の設定として、たとえば自閉スペクトラム症と公言されているものをそのままレポートにしてくるというもの。これは他院から紹介状を持ってきた患者に類比することができる。紹介状に「自閉スペクトラム症」と書いてあるからといって鵜呑みにするのはヤブ。まともな医者ならもう一度よく患者やその家族の話を聞いてあらためて診断を考えるはずである。
 診断病名についてもおおむねDSM-5に依拠したレポートが多く、教員のコメントも基本路線としてDSM-5に準拠している。DSM-5の日本語版の作成にはいくつかの学会が協議したためにひとつにまとまらず、「自閉スペクトラム症/ 自閉症スペクトラム障害」などと併記されている項目も多いが、本書ではきちんと統一せずに使用している。操作的診断に依拠することで、そのピットフォールもよく現れてきたと思う。診断基準に当てはまることは拾うけれど、その診断らしくない諸々の症状については拾わないという現象が起きるのである。

 年が明けて、2021年。暮れからの感染第3波で、実習は再びオンラインとなったが、6週間でそれは明け、2月後半の2週間だけは学生がまた病棟・外来に戻ってきた。これで1年間のミッション終了。数えてみると109キャラクターが集まった。ちなみにレポート数の多かったキャラ三傑は、野比のび太(『ドラえもん』)、夜神 月(『DEATH NOTE』)、我妻善逸(『鬼滅の刃』)である。
 のび太くんは長年日本人に親しまれてきたキャラクターなので当然だが、少なくともマンガ連載はもうずいぶん前の『DEATH NOTE』の躍進は、登場人物のキャラが立っていたからであろうか。『鬼滅の刃』はこの時期に大ヒットしていたので作品単位でいえば一番レポートが多かったのも意外ではない。もっとも誰も主人公の竈門炭治郎は取り上げてくれなかった。さまざまに性格の偏った主人公の多い昨今、人格的にバランスのいい一昔前の主人公の系譜で、診断しにくかったのだと思う。

 本書は医学生や研修医にはもちろん、精神科に関心を持つ一般の方々、歴史や物語を別の視点から楽しんでみたい方にも読んでいただければと思う。願わくば、ご一読のうえこれは良書とご診断を賜りたい。つまり、「面白かったよ」とよい評価を、いやさ、褒めてちょうだい、おたくの学生さんはなかなかのものだと。

自治医科大学精神医学講座
小林 聡幸
評者:牧瀬 英幹(中部大学生命健康科学部准教授)

精神科臨床と病跡学の接点にあるもの

 2019年の暮れに、中国の武漢で最初に確認された新型コロナウィルス(SARS-CoV-2)は、瞬く間に全世界へと広まった。日本においても集団感染が発生し、2020年3月下旬から感染第1波が始まった。これを受け、各大学は対面での講義・実習を中止せざるを得なくなったが、自治医科大学もその例外ではなかった。本書は、そんな中、「実際の患者を前にして診断を検討する機会の代わり」として考案されたもの、すなわち、物語や歴史上の人物を精神科診断した医学生のレポートに教員(著者)がコメントしたものを纏めたものである。しかし、その内容は講義録であることを超え、精神科臨床において大切にすべき考え方や臨床上のヒントを学ぶ機会、さらには、精神科臨床と病跡学の接点にあるものについて問い直す機会を我々に与えてくれるものであるように思われる。
 本書全体は8章で構成されており、序章としての「キャラクターと作品世界とそれを診断する視座」をはじめとして、「注意欠如・多動症」、「自閉スペクトラム症」、「パーソナリティ障害」、「心的外傷後ストレス障害・解離性同一症」、「神経症とその周辺」、「うつ病・双極性障害」、「統合失調症」という形で、疾患別に分けられている。各章毎に、その疾患に該当すると医学生が診断したキャラクターが5名登場し、それぞれについて医学生がそのように診断した理由とそれに対する著者のコメントが記載されている。医学生の診断は時に的確であるものの、殆どが誤っており、むしろその誤りを指摘し、正しい診断を導く著者のコメントに多くの学びがある。
 例えば、第2章「注意欠如・多動症」の最初に登場するのは、『走れメロス』(太宰治著)のメロスである。ある医学生は、メロスが王の悪政を知って激怒し、そのまま王城へ乗り込んだ点において衝動性が、また、約束事を守れない、もしくはぎりぎりになって慌てる場面が複数回見受けられる点において不注意が認められるとして、メロスを注意欠如・多動症(ADHD)であると診断する。これに対して、著者は、衝動性とは「やりたいけれど禁じられていることを熟慮なくやってしまう傾向」であり、メロスの正義感に駆られての行動とは異なること、また、医学生の診断が「先にADHDがあって、そこにエピソードを当てはめよう」とするものとなっていることを指摘するとともに、「臨床の現場でADHDを疑った場合、本人が約束を守れなかったエピソードがあったかどうかを家族などに問診してみると、その推測が当たっていれば、続々とエピソードが出てくるものです」、「常に別の可能性を考えつつ、事実に即して考えていかないといけません」と助言するのである。
これらの点は、診断を行うに当たって常に意識しておかなくてはならない基本的なことであると言えるだろう。そのことを踏まえた上で、著者のコメントはさらに続く。すなわち、太宰治が自らの傾向をメロスに当てはめた可能性を実際のエピソードをもとに検討しながら、メロスのような患者の苦しみに寄り添い、診断することの大切さを、次のように示唆するのである。「太宰治ADHD説が妥当かどうかはわからないけれど、もしそうだとしたら、太宰が自分自身の傾向をメロスに当てはめたのかもしれません。でも実際の太宰はだらしないエピソードばかりのようですけれど。こんな話が載っていますよ。太宰は友人の檀一雄と熱海で飲み歩いてスッカラカンとなり、檀を宿屋の人質にして置き、東京の井伏鱒二に金を借りに行きました。ところが太宰がぜんぜん帰ってこないので檀が宿屋と飲み屋に話をつけて井伏邸に行ってみると、ふたりは将棋なんかをさしているので檀がカッとなると、なかなか借金を申し出せないでいた太宰は『待つ身が辛いかね、待たせる身が辛いかね』と言ったという」。「被害者の苦しみは誰でもすぐに同情するけれど、加害者の苦しみにはなかなか思い至らないでしょう。われわれの仕事は勧善懲悪ではないから、そういったところにも思いをいたす必要があります」。我々はここに、病跡学的な知見を診断に活用する一つの方法を見出すこともできるのではないだろうか。
 第3章「自閉スペクトラム症」の3番目に登場する、『ちびまる子ちゃん』(さくらももこ著)のクラスメート、野口さん(野口笑子)を巡る医学生と著者とのやり取りは、また異なる学びに溢れたものである。ある医学生は、野口さんの「くっくっくっく」と周りの状況にかかわらずニヒルに笑う以外には感情を表出することが少なく、対人関係にあまり興味を示さない、あるいは、話すときに目線を合わせず、どんな相手に対しても小学生とは思えない冷静さで言葉を選ばずに指摘する(ただし、言語発達に問題はなく、知的障害もない)特徴などをDSM-5の診断基準に照らし合わせ、野口さんを自閉スペクトラム症(ASD)であると診断する。これに対して、著者は、ウィング(Wing, L.)による対人関係の3パターンの説明を補足した後、「野口さんには、強いこだわり、対人関係の機微やニュアンスの理解が難しい、身振りでの表現ができない、興味関心が限定されている、常同的な行動がみられるなど、多くのASDの特徴がみられます」と述べ、その診断の正しさを認める。
その上で、野口さんの「くっくっくっく」と周りの状況と関係なく笑うことがタイムスリップ現象に関連した思い出し笑いである可能性や、「某芸人コンビのすれ違いコント、バイトの面接に来た若者を万引き犯と間違え事情を聴取しようとする店長の噛み合わない会話、のような他者視点からの考え方がキーとなるようなお笑いは理解が難しい」可能性などを指摘するとともに、後者と「心の理論」(サリー・アン課題)との関係性について説明する。さらには、野口さんの不自然な視線がASDに特徴的であることを踏まえ、「定型発達者では、モノを識別する際に活性化する脳部位は下側頭回であり、他人の顔を識別する際に活性化する脳部位は紡錘状回です。いずれも側頭葉に位置します。一方、ASDの方の場合はモノを識別する際にも顔を識別する際にも下側頭回の活性化が生じ、顔を識別する際の紡錘状回の活性化が生じません。つまりASDではモノも顔も同様の脳内ネットワークで処理している可能性があるということです」と述べ、脳科学的な観点からの考察も行うのである。
最後に著者は、「ASDの特徴を有する野口さんがクラスに受け入れられているというのはとても優しい世界です。ASDの方は対人関係が難しく、そのため学童期にいじめの対象となったり本人が疎外感を感じたりすることがしばしばあります。その結果として自尊心の低下、抑うつなどの二次障害が形成されることとなりますが、野口さんはそうした問題のないASDとして成長していけそうですね。理想的な形です」と言及しているが、このようにキャラクターや物語の世界に徹底的に入り込んで、細かく観察し、そこでの問題を既存の理論と比較しながら(適宜生物学的な観点を採り入れながら)多角的に検討する姿勢は、診断を行う際に欠かせないものであるだろう。そして、我々はここに、病跡学の臨床応用のまた別の可能性を垣間見ることができるように思われるのである。
 この他にも、第4章「パーソナリティ障害」では、アニメ『新世紀エヴァンゲリオン』(庵野秀明監督)のアスカ(自己愛性パーソナリティ障害の診断)が、第5章「心的外傷後ストレス障害・解離性同一症」では、『こころ』(夏目漱石著)の先生(『こころ』や夏目漱石に関する病跡学的研究の動向が纏められ、検討されている)が、第6章「神経症とその周辺」では、アニメ『アルプスの少女ハイジ』(ズイヨー映像)のクララ(転換性障害による失立失歩の診断)が、第7章「うつ病・双極性障害」では、画家のゴッホ(耳切り事件を中心に、病跡学的な考察が為されている)が、第8章「統合失調症」では、画家のムンク(『叫び』やムンクに関する病跡学的研究が紹介されている)などが取り上げられ、議論されている。いずれの議論においても、先に紹介した章の内容と同じく、診断を行う際に求められる姿勢や臨床上のヒント、病跡学的な知見が散りばめられており、大変興味深い。
 さらに、各章の終わりには「ティーブレーク」という小さなコラムが設定されており、それらに含まれる著者のアイデアに触れ得ることもまた、本書の魅力の一つである。例えば、「キャラクターを診断することは時に逆転移のコントロールに有用である」のコラムにおいて、著者は「患者の病像と類似したキャラクターを思い浮かべることで、転移感情のコントロールが比較的容易になるのである。最近のトレンドは『鬼滅の刃』である。上弦の陸の声で、『羨ましいなぁ』『妬ましいなぁ』を脳内再生すると、大抵のことは許せるような気になる」と述べている。また、「ハレンチ学園の倫理」のコラムにおいて、著者は、子ども時代に『ハレンチ学園』(永井豪著)を家に買って帰り、母親に即刻捨てられてしまったことや『デビルマン』(永井豪著)の悪魔の力を使って悪魔と戦うという面白さに魅せられたことについて触れた後、「最近、医学界では倫理倫理と、かまびすしい。境界を越えていくような医療行為が頻出するほど問題が増えているからだが、かくあるべしと押しつけてくるような『倫理』も多い。しかし倫理には答えはない。それは社会のなかで合意形成を求めて見つけ出していくしかないものである。悪魔の力で悪魔と戦うのは倫理的にどうなのか。原子力の電気で人命を救うのはいかがなものか。病気の力で病気と闘うのはアリか。親が必死になって捨てたくなるようなマンガの猥雑さにこそ、倫理を考える教科書があるかも知れない」と指摘している。これらのアイデアは、日々の臨床実践の積み重ねの中で生まれてきたものであるからこそ深い意味を持ち、また、そこから我々が学ぶべきことも多いのだろう。
 以上、本書が講義録に留まらず、精神科臨床において重要となる考え方や臨床上のヒントを学ぶ機会、そして、精神科臨床と病跡学の接点にあるものについて問い直す機会を我々に与えてくれるものであることを示してきたが、本書の背景に、DSM-5を代表とする操作的診断の限界とそれを補うものとしての病跡学という新たな関係構造の萌芽のようなものを認めることができるのかもしれない。その意味において、新型コロナウィルスの感染拡大という非日常的な状況下で生まれた本書は、人間にとって大切なことをもう一度我々に気づかせてくれるものとしてもあるように思えるのである。

<日本病跡学雑誌 第104号、2022年12月15日発行、日本病跡学会、p77-9より許可を得て転載>

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