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キャラクターが来る精神科外来
漫画/アニメ/映画の登場人物の心理を分析、症候を徹底精査 !
評者:牧瀬 英幹(中部大学生命健康科学部准教授)
精神科臨床と病跡学の接点にあるもの
2019年の暮れに、中国の武漢で最初に確認された新型コロナウィルス(SARS-CoV-2)は、瞬く間に全世界へと広まった。日本においても集団感染が発生し、2020年3月下旬から感染第1波が始まった。これを受け、各大学は対面での講義・実習を中止せざるを得なくなったが、自治医科大学もその例外ではなかった。本書は、そんな中、「実際の患者を前にして診断を検討する機会の代わり」として考案されたもの、すなわち、物語や歴史上の人物を精神科診断した医学生のレポートに教員(著者)がコメントしたものを纏めたものである。しかし、その内容は講義録であることを超え、精神科臨床において大切にすべき考え方や臨床上のヒントを学ぶ機会、さらには、精神科臨床と病跡学の接点にあるものについて問い直す機会を我々に与えてくれるものであるように思われる。
本書全体は8章で構成されており、序章としての「キャラクターと作品世界とそれを診断する視座」をはじめとして、「注意欠如・多動症」、「自閉スペクトラム症」、「パーソナリティ障害」、「心的外傷後ストレス障害・解離性同一症」、「神経症とその周辺」、「うつ病・双極性障害」、「統合失調症」という形で、疾患別に分けられている。各章毎に、その疾患に該当すると医学生が診断したキャラクターが5名登場し、それぞれについて医学生がそのように診断した理由とそれに対する著者のコメントが記載されている。医学生の診断は時に的確であるものの、殆どが誤っており、むしろその誤りを指摘し、正しい診断を導く著者のコメントに多くの学びがある。
例えば、第2章「注意欠如・多動症」の最初に登場するのは、『走れメロス』(太宰治著)のメロスである。ある医学生は、メロスが王の悪政を知って激怒し、そのまま王城へ乗り込んだ点において衝動性が、また、約束事を守れない、もしくはぎりぎりになって慌てる場面が複数回見受けられる点において不注意が認められるとして、メロスを注意欠如・多動症(ADHD)であると診断する。これに対して、著者は、衝動性とは「やりたいけれど禁じられていることを熟慮なくやってしまう傾向」であり、メロスの正義感に駆られての行動とは異なること、また、医学生の診断が「先にADHDがあって、そこにエピソードを当てはめよう」とするものとなっていることを指摘するとともに、「臨床の現場でADHDを疑った場合、本人が約束を守れなかったエピソードがあったかどうかを家族などに問診してみると、その推測が当たっていれば、続々とエピソードが出てくるものです」、「常に別の可能性を考えつつ、事実に即して考えていかないといけません」と助言するのである。
これらの点は、診断を行うに当たって常に意識しておかなくてはならない基本的なことであると言えるだろう。そのことを踏まえた上で、著者のコメントはさらに続く。すなわち、太宰治が自らの傾向をメロスに当てはめた可能性を実際のエピソードをもとに検討しながら、メロスのような患者の苦しみに寄り添い、診断することの大切さを、次のように示唆するのである。「太宰治ADHD説が妥当かどうかはわからないけれど、もしそうだとしたら、太宰が自分自身の傾向をメロスに当てはめたのかもしれません。でも実際の太宰はだらしないエピソードばかりのようですけれど。こんな話が載っていますよ。太宰は友人の檀一雄と熱海で飲み歩いてスッカラカンとなり、檀を宿屋の人質にして置き、東京の井伏鱒二に金を借りに行きました。ところが太宰がぜんぜん帰ってこないので檀が宿屋と飲み屋に話をつけて井伏邸に行ってみると、ふたりは将棋なんかをさしているので檀がカッとなると、なかなか借金を申し出せないでいた太宰は『待つ身が辛いかね、待たせる身が辛いかね』と言ったという」。「被害者の苦しみは誰でもすぐに同情するけれど、加害者の苦しみにはなかなか思い至らないでしょう。われわれの仕事は勧善懲悪ではないから、そういったところにも思いをいたす必要があります」。我々はここに、病跡学的な知見を診断に活用する一つの方法を見出すこともできるのではないだろうか。
第3章「自閉スペクトラム症」の3番目に登場する、『ちびまる子ちゃん』(さくらももこ著)のクラスメート、野口さん(野口笑子)を巡る医学生と著者とのやり取りは、また異なる学びに溢れたものである。ある医学生は、野口さんの「くっくっくっく」と周りの状況にかかわらずニヒルに笑う以外には感情を表出することが少なく、対人関係にあまり興味を示さない、あるいは、話すときに目線を合わせず、どんな相手に対しても小学生とは思えない冷静さで言葉を選ばずに指摘する(ただし、言語発達に問題はなく、知的障害もない)特徴などをDSM-5の診断基準に照らし合わせ、野口さんを自閉スペクトラム症(ASD)であると診断する。これに対して、著者は、ウィング(Wing, L.)による対人関係の3パターンの説明を補足した後、「野口さんには、強いこだわり、対人関係の機微やニュアンスの理解が難しい、身振りでの表現ができない、興味関心が限定されている、常同的な行動がみられるなど、多くのASDの特徴がみられます」と述べ、その診断の正しさを認める。
その上で、野口さんの「くっくっくっく」と周りの状況と関係なく笑うことがタイムスリップ現象に関連した思い出し笑いである可能性や、「某芸人コンビのすれ違いコント、バイトの面接に来た若者を万引き犯と間違え事情を聴取しようとする店長の噛み合わない会話、のような他者視点からの考え方がキーとなるようなお笑いは理解が難しい」可能性などを指摘するとともに、後者と「心の理論」(サリー・アン課題)との関係性について説明する。さらには、野口さんの不自然な視線がASDに特徴的であることを踏まえ、「定型発達者では、モノを識別する際に活性化する脳部位は下側頭回であり、他人の顔を識別する際に活性化する脳部位は紡錘状回です。いずれも側頭葉に位置します。一方、ASDの方の場合はモノを識別する際にも顔を識別する際にも下側頭回の活性化が生じ、顔を識別する際の紡錘状回の活性化が生じません。つまりASDではモノも顔も同様の脳内ネットワークで処理している可能性があるということです」と述べ、脳科学的な観点からの考察も行うのである。
最後に著者は、「ASDの特徴を有する野口さんがクラスに受け入れられているというのはとても優しい世界です。ASDの方は対人関係が難しく、そのため学童期にいじめの対象となったり本人が疎外感を感じたりすることがしばしばあります。その結果として自尊心の低下、抑うつなどの二次障害が形成されることとなりますが、野口さんはそうした問題のないASDとして成長していけそうですね。理想的な形です」と言及しているが、このようにキャラクターや物語の世界に徹底的に入り込んで、細かく観察し、そこでの問題を既存の理論と比較しながら(適宜生物学的な観点を採り入れながら)多角的に検討する姿勢は、診断を行う際に欠かせないものであるだろう。そして、我々はここに、病跡学の臨床応用のまた別の可能性を垣間見ることができるように思われるのである。
この他にも、第4章「パーソナリティ障害」では、アニメ『新世紀エヴァンゲリオン』(庵野秀明監督)のアスカ(自己愛性パーソナリティ障害の診断)が、第5章「心的外傷後ストレス障害・解離性同一症」では、『こころ』(夏目漱石著)の先生(『こころ』や夏目漱石に関する病跡学的研究の動向が纏められ、検討されている)が、第6章「神経症とその周辺」では、アニメ『アルプスの少女ハイジ』(ズイヨー映像)のクララ(転換性障害による失立失歩の診断)が、第7章「うつ病・双極性障害」では、画家のゴッホ(耳切り事件を中心に、病跡学的な考察が為されている)が、第8章「統合失調症」では、画家のムンク(『叫び』やムンクに関する病跡学的研究が紹介されている)などが取り上げられ、議論されている。いずれの議論においても、先に紹介した章の内容と同じく、診断を行う際に求められる姿勢や臨床上のヒント、病跡学的な知見が散りばめられており、大変興味深い。
さらに、各章の終わりには「ティーブレーク」という小さなコラムが設定されており、それらに含まれる著者のアイデアに触れ得ることもまた、本書の魅力の一つである。例えば、「キャラクターを診断することは時に逆転移のコントロールに有用である」のコラムにおいて、著者は「患者の病像と類似したキャラクターを思い浮かべることで、転移感情のコントロールが比較的容易になるのである。最近のトレンドは『鬼滅の刃』である。上弦の陸の声で、『羨ましいなぁ』『妬ましいなぁ』を脳内再生すると、大抵のことは許せるような気になる」と述べている。また、「ハレンチ学園の倫理」のコラムにおいて、著者は、子ども時代に『ハレンチ学園』(永井豪著)を家に買って帰り、母親に即刻捨てられてしまったことや『デビルマン』(永井豪著)の悪魔の力を使って悪魔と戦うという面白さに魅せられたことについて触れた後、「最近、医学界では倫理倫理と、かまびすしい。境界を越えていくような医療行為が頻出するほど問題が増えているからだが、かくあるべしと押しつけてくるような『倫理』も多い。しかし倫理には答えはない。それは社会のなかで合意形成を求めて見つけ出していくしかないものである。悪魔の力で悪魔と戦うのは倫理的にどうなのか。原子力の電気で人命を救うのはいかがなものか。病気の力で病気と闘うのはアリか。親が必死になって捨てたくなるようなマンガの猥雑さにこそ、倫理を考える教科書があるかも知れない」と指摘している。これらのアイデアは、日々の臨床実践の積み重ねの中で生まれてきたものであるからこそ深い意味を持ち、また、そこから我々が学ぶべきことも多いのだろう。
以上、本書が講義録に留まらず、精神科臨床において重要となる考え方や臨床上のヒントを学ぶ機会、そして、精神科臨床と病跡学の接点にあるものについて問い直す機会を我々に与えてくれるものであることを示してきたが、本書の背景に、DSM-5を代表とする操作的診断の限界とそれを補うものとしての病跡学という新たな関係構造の萌芽のようなものを認めることができるのかもしれない。その意味において、新型コロナウィルスの感染拡大という非日常的な状況下で生まれた本書は、人間にとって大切なことをもう一度我々に気づかせてくれるものとしてもあるように思えるのである。
<日本病跡学雑誌 第104号、2022年12月15日発行、日本病跡学会、p77-9より許可を得て転載>
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精神科臨床と病跡学の接点にあるもの
2019年の暮れに、中国の武漢で最初に確認された新型コロナウィルス(SARS-CoV-2)は、瞬く間に全世界へと広まった。日本においても集団感染が発生し、2020年3月下旬から感染第1波が始まった。これを受け、各大学は対面での講義・実習を中止せざるを得なくなったが、自治医科大学もその例外ではなかった。本書は、そんな中、「実際の患者を前にして診断を検討する機会の代わり」として考案されたもの、すなわち、物語や歴史上の人物を精神科診断した医学生のレポートに教員(著者)がコメントしたものを纏めたものである。しかし、その内容は講義録であることを超え、精神科臨床において大切にすべき考え方や臨床上のヒントを学ぶ機会、さらには、精神科臨床と病跡学の接点にあるものについて問い直す機会を我々に与えてくれるものであるように思われる。
本書全体は8章で構成されており、序章としての「キャラクターと作品世界とそれを診断する視座」をはじめとして、「注意欠如・多動症」、「自閉スペクトラム症」、「パーソナリティ障害」、「心的外傷後ストレス障害・解離性同一症」、「神経症とその周辺」、「うつ病・双極性障害」、「統合失調症」という形で、疾患別に分けられている。各章毎に、その疾患に該当すると医学生が診断したキャラクターが5名登場し、それぞれについて医学生がそのように診断した理由とそれに対する著者のコメントが記載されている。医学生の診断は時に的確であるものの、殆どが誤っており、むしろその誤りを指摘し、正しい診断を導く著者のコメントに多くの学びがある。
例えば、第2章「注意欠如・多動症」の最初に登場するのは、『走れメロス』(太宰治著)のメロスである。ある医学生は、メロスが王の悪政を知って激怒し、そのまま王城へ乗り込んだ点において衝動性が、また、約束事を守れない、もしくはぎりぎりになって慌てる場面が複数回見受けられる点において不注意が認められるとして、メロスを注意欠如・多動症(ADHD)であると診断する。これに対して、著者は、衝動性とは「やりたいけれど禁じられていることを熟慮なくやってしまう傾向」であり、メロスの正義感に駆られての行動とは異なること、また、医学生の診断が「先にADHDがあって、そこにエピソードを当てはめよう」とするものとなっていることを指摘するとともに、「臨床の現場でADHDを疑った場合、本人が約束を守れなかったエピソードがあったかどうかを家族などに問診してみると、その推測が当たっていれば、続々とエピソードが出てくるものです」、「常に別の可能性を考えつつ、事実に即して考えていかないといけません」と助言するのである。
これらの点は、診断を行うに当たって常に意識しておかなくてはならない基本的なことであると言えるだろう。そのことを踏まえた上で、著者のコメントはさらに続く。すなわち、太宰治が自らの傾向をメロスに当てはめた可能性を実際のエピソードをもとに検討しながら、メロスのような患者の苦しみに寄り添い、診断することの大切さを、次のように示唆するのである。「太宰治ADHD説が妥当かどうかはわからないけれど、もしそうだとしたら、太宰が自分自身の傾向をメロスに当てはめたのかもしれません。でも実際の太宰はだらしないエピソードばかりのようですけれど。こんな話が載っていますよ。太宰は友人の檀一雄と熱海で飲み歩いてスッカラカンとなり、檀を宿屋の人質にして置き、東京の井伏鱒二に金を借りに行きました。ところが太宰がぜんぜん帰ってこないので檀が宿屋と飲み屋に話をつけて井伏邸に行ってみると、ふたりは将棋なんかをさしているので檀がカッとなると、なかなか借金を申し出せないでいた太宰は『待つ身が辛いかね、待たせる身が辛いかね』と言ったという」。「被害者の苦しみは誰でもすぐに同情するけれど、加害者の苦しみにはなかなか思い至らないでしょう。われわれの仕事は勧善懲悪ではないから、そういったところにも思いをいたす必要があります」。我々はここに、病跡学的な知見を診断に活用する一つの方法を見出すこともできるのではないだろうか。
第3章「自閉スペクトラム症」の3番目に登場する、『ちびまる子ちゃん』(さくらももこ著)のクラスメート、野口さん(野口笑子)を巡る医学生と著者とのやり取りは、また異なる学びに溢れたものである。ある医学生は、野口さんの「くっくっくっく」と周りの状況にかかわらずニヒルに笑う以外には感情を表出することが少なく、対人関係にあまり興味を示さない、あるいは、話すときに目線を合わせず、どんな相手に対しても小学生とは思えない冷静さで言葉を選ばずに指摘する(ただし、言語発達に問題はなく、知的障害もない)特徴などをDSM-5の診断基準に照らし合わせ、野口さんを自閉スペクトラム症(ASD)であると診断する。これに対して、著者は、ウィング(Wing, L.)による対人関係の3パターンの説明を補足した後、「野口さんには、強いこだわり、対人関係の機微やニュアンスの理解が難しい、身振りでの表現ができない、興味関心が限定されている、常同的な行動がみられるなど、多くのASDの特徴がみられます」と述べ、その診断の正しさを認める。
その上で、野口さんの「くっくっくっく」と周りの状況と関係なく笑うことがタイムスリップ現象に関連した思い出し笑いである可能性や、「某芸人コンビのすれ違いコント、バイトの面接に来た若者を万引き犯と間違え事情を聴取しようとする店長の噛み合わない会話、のような他者視点からの考え方がキーとなるようなお笑いは理解が難しい」可能性などを指摘するとともに、後者と「心の理論」(サリー・アン課題)との関係性について説明する。さらには、野口さんの不自然な視線がASDに特徴的であることを踏まえ、「定型発達者では、モノを識別する際に活性化する脳部位は下側頭回であり、他人の顔を識別する際に活性化する脳部位は紡錘状回です。いずれも側頭葉に位置します。一方、ASDの方の場合はモノを識別する際にも顔を識別する際にも下側頭回の活性化が生じ、顔を識別する際の紡錘状回の活性化が生じません。つまりASDではモノも顔も同様の脳内ネットワークで処理している可能性があるということです」と述べ、脳科学的な観点からの考察も行うのである。
最後に著者は、「ASDの特徴を有する野口さんがクラスに受け入れられているというのはとても優しい世界です。ASDの方は対人関係が難しく、そのため学童期にいじめの対象となったり本人が疎外感を感じたりすることがしばしばあります。その結果として自尊心の低下、抑うつなどの二次障害が形成されることとなりますが、野口さんはそうした問題のないASDとして成長していけそうですね。理想的な形です」と言及しているが、このようにキャラクターや物語の世界に徹底的に入り込んで、細かく観察し、そこでの問題を既存の理論と比較しながら(適宜生物学的な観点を採り入れながら)多角的に検討する姿勢は、診断を行う際に欠かせないものであるだろう。そして、我々はここに、病跡学の臨床応用のまた別の可能性を垣間見ることができるように思われるのである。
この他にも、第4章「パーソナリティ障害」では、アニメ『新世紀エヴァンゲリオン』(庵野秀明監督)のアスカ(自己愛性パーソナリティ障害の診断)が、第5章「心的外傷後ストレス障害・解離性同一症」では、『こころ』(夏目漱石著)の先生(『こころ』や夏目漱石に関する病跡学的研究の動向が纏められ、検討されている)が、第6章「神経症とその周辺」では、アニメ『アルプスの少女ハイジ』(ズイヨー映像)のクララ(転換性障害による失立失歩の診断)が、第7章「うつ病・双極性障害」では、画家のゴッホ(耳切り事件を中心に、病跡学的な考察が為されている)が、第8章「統合失調症」では、画家のムンク(『叫び』やムンクに関する病跡学的研究が紹介されている)などが取り上げられ、議論されている。いずれの議論においても、先に紹介した章の内容と同じく、診断を行う際に求められる姿勢や臨床上のヒント、病跡学的な知見が散りばめられており、大変興味深い。
さらに、各章の終わりには「ティーブレーク」という小さなコラムが設定されており、それらに含まれる著者のアイデアに触れ得ることもまた、本書の魅力の一つである。例えば、「キャラクターを診断することは時に逆転移のコントロールに有用である」のコラムにおいて、著者は「患者の病像と類似したキャラクターを思い浮かべることで、転移感情のコントロールが比較的容易になるのである。最近のトレンドは『鬼滅の刃』である。上弦の陸の声で、『羨ましいなぁ』『妬ましいなぁ』を脳内再生すると、大抵のことは許せるような気になる」と述べている。また、「ハレンチ学園の倫理」のコラムにおいて、著者は、子ども時代に『ハレンチ学園』(永井豪著)を家に買って帰り、母親に即刻捨てられてしまったことや『デビルマン』(永井豪著)の悪魔の力を使って悪魔と戦うという面白さに魅せられたことについて触れた後、「最近、医学界では倫理倫理と、かまびすしい。境界を越えていくような医療行為が頻出するほど問題が増えているからだが、かくあるべしと押しつけてくるような『倫理』も多い。しかし倫理には答えはない。それは社会のなかで合意形成を求めて見つけ出していくしかないものである。悪魔の力で悪魔と戦うのは倫理的にどうなのか。原子力の電気で人命を救うのはいかがなものか。病気の力で病気と闘うのはアリか。親が必死になって捨てたくなるようなマンガの猥雑さにこそ、倫理を考える教科書があるかも知れない」と指摘している。これらのアイデアは、日々の臨床実践の積み重ねの中で生まれてきたものであるからこそ深い意味を持ち、また、そこから我々が学ぶべきことも多いのだろう。
以上、本書が講義録に留まらず、精神科臨床において重要となる考え方や臨床上のヒントを学ぶ機会、そして、精神科臨床と病跡学の接点にあるものについて問い直す機会を我々に与えてくれるものであることを示してきたが、本書の背景に、DSM-5を代表とする操作的診断の限界とそれを補うものとしての病跡学という新たな関係構造の萌芽のようなものを認めることができるのかもしれない。その意味において、新型コロナウィルスの感染拡大という非日常的な状況下で生まれた本書は、人間にとって大切なことをもう一度我々に気づかせてくれるものとしてもあるように思えるのである。
<日本病跡学雑誌 第104号、2022年12月15日発行、日本病跡学会、p77-9より許可を得て転載>
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