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うつ病ダイバーシティ
うつ病を精神病理学で解き明かす、軽妙筆致の新感覚・学術書!
評者:松本 卓也(京都大学大学院人間・環境学研究科/精神病理学)
精神病理学者の本というと、たとえば木村敏の『分裂病の現象学』や宮本忠雄の『妄想研究とその周辺』のように、弘文堂から上製・函入りで刊行された格調高い書物をイメージする人も多いだろう。『分裂病の現象学』は筑摩書房で文庫化もされたが、やはりあの「函から本を取り出す」という行為が重要であって、これから自分は精神病理学の本を紐解くのだぞ、と襟を正す手筈を踏むかどうかは読書体験にも少なからぬ影響を与える。たとえ函入りでなかったとしても、ソフトカバー(並製)ではいけない。硬い表紙のハードカバー(上製)でなければ「感じ」がでないのである。
本書は、著者が1996〜2023年にかけて執筆したうつ病論をまとめた論文集である。同じ著者による統合失調症論集である『行為と幻覚』(金原出版)が刊行されたのは2011年のことであるから、ちょうどそれから干支が一回りしたことになる。『行為と幻覚』もソフトカバーであったが、本書『うつ病ダイバーシティ』はそれに加えて、収録されている精神病理学の論文をかなりユーモラスな筆致でリメイクしており、読みながら思わず何度も笑ってしまうようなつくりになっている。精神病理学の本で大笑いしたのは初めて、という体験をする読者も少なくないだろう。ちなみに、著者はもう1つの専門である音楽家の病跡学の本については2冊ともハードカバーで出しているけれども、やはり本格的な病跡学はまだまだハードカバーじゃないと「感じ」が出ないのかもしれない。
もっとも、見かけに反して、書かれてある内容は本格的である(そもそも、元の論文はいずれも専門誌に出た精神病理学の論文である)。師である宮本忠雄の衣鉢を継いで、躁とうつの本態を混合状態に見定め、さらには妄想や焦燥や自己臭を現象学的・人間学的に捉える論述は、多くのことを教えてくれるだろう。しかも、この本のつくりである。いままで「お高くとまった」感じのする精神病理学を敬遠していた人々にも訴求し、あらたな読者を獲得することだろう。
けれども、やはり時代は変わってしまったのだ、という感覚を抱かざるをえない。いつの頃からか、精神病理学のハードカバーの本はほとんど出なく(売れなく?)なった。評者自身も含め、精神病理学の若手はどこかコミカルであり、どこかに「なんちゃって」感があることを隠すことができない。おそらく著者は、精神病理学が「本格派」ではありえなくなった時代に、一体何をなしえるのかをそのスタイルによって問うているのだろう。本書が精神病理学における「本流」であった統合失調症ではなくうつ病を対象としていること、しかもその「本質」ではなく「ダイバーシティ」をタイトルに掲げていることは、この学の置かれた状況と、その状況のなかでいかにして火をともし続けることができるのかという困難への応答なのである。
<精神医学 Vol.66 No.2、2024年2月号、医学書院、p227より転載>
評者:佐藤晋爾(筑波大学 茨城県地域臨床教育センター精神科 教授)
シン・うつ病の教科書、もとい、治療論と精神病理学の幸せな結婚
目を引くイラスト。ざらついた質感のソフトカバー。
異なる紙質で交互に綴じられ、明朝体と柔らかなゴシック体がまざった本文。
意図的に意味をずらしたイラスト。
あれ、今、俺が持っている本は晶文社かミシマ社のだっけ?と誤解しそうな装丁。
医学書売り場で確実に異彩を放ち、存在感をもつに違いない。
精神病理学の著作は、ある疾患や症候の、本質または機序が主題になると思うが、本書はそうではない。うつ病の主要・関連症状である不安、強迫、自己臭、ヒステリー、妄想などを、各論的に丁寧な精神病理学的説明を行って診断・治療と結びつける。そこに、小林先生が大変「苦痛」だったというマクラ話が挟まる。ちなみに、各章はほとんど元論文があるのだが、比較するとほぼ書下ろしといってよいくらい重要なことを落とさずに修正されている。どれだけのご苦労だっただろう。
もちろん各論だけではない。宮本先生門下の諸先生方にとって重要であろう、混合状態概念が脊骨/「脊椎」として本書を貫いている。小林先生はその中でも不安に注目なさっていると思う(刻の章、臨床精神病理42 (1), 2021)。うつの精神病理は時間に関心が向きがちだが、不安を、DSMのつまらない併存概念でなく、広瀬先生のスペクトラム概念でもなく、本格的に論じたうつの精神病理学的考察は少ないのではなかろうか。
また、本書ほど治療を強く意識した精神病理学の本を、不勉強を棚にあげるが、評者はあまり読んだ記憶がない……と書くのは精神病理学の本を誉める時の常套句だが、本書については、評者は本気である。もしかして、このような本は今まで無かったのではないか、そうなんだよなあ、こういう精神病理学の本を読みたかったんだよなあと、改めて思い至った。
今現在、普通に臨床をやっていれば薬物療法を避けることはできない。そして、精神病理学に関する著作で、これだけ詳しく薬物療法に触れている類書はないと思う。たとえば、躁とうつを平面(2次元)上の波でなく、異なる次元にあると考えるのが精神病理学的には正確かもしれない。しかし、薬物療法では、本書のように敢えて素朴に上下する波と考えた方が実践的である。実際、「あの患者さん、olanzapineか何かで少し〈抑え〉ないと危なくない?」「もう一息なんだけど、SNRIに切り替えれば、ちょっと〈上がる〉かなあ」などの発言は、普通に医局で交わされている(と思う)。ただ、上下の拮抗だけで考えるのは臨床では危なっかしく、moodをstabilizeするために何かを足さなければならない。その何か、つまり“mood stabilizer”を精神病理学的にどう考えればいいか。そうか、小林先生、そのご説明で一発ですね……(p.89)。もちろん、薬物だけでなく、特定流派ではない日常的な意味での精神療法や対応のヒントもちりばめられている。
小林先生のたとえ話は大変に分かりやすい。患者さんや、ちょっとアレな研修医に症状の違いを説明するのに大変に重宝する。たとえば強迫と常同/こだわりの違いを「不安がー」「自我がー」と大仰に説明せず(もちろん説明してもいいのだが)、本書を一読なされば傑作な比喩を使って伝えられる(p.195)。この部分は、きっと小林先生がウンウン唸ってお考えになった(か、風呂かトイレで思いつかれた)ものだと思うので、本書をお読みください。評者は、最初に目にした時は声を出して笑ってしまい、直後に「なるほど」とちょっと感動した。
さらに本書は〈自治医科大学派うつ病論概説〉でもある。というのも、本書の邦文引用文献の多くが自治医科大学の錚々たる先生方のものなのである。うつが統合失調症より自閉的であると論じる際、木村敏先生の論文を引用しがちだと思うが、本書ではしびれることに宮本先生のご論文である(p.12)。
ある伝統のもとで考えを深めるとはこういうことなのだ。精神病理学は一人で行うものだと木村先生がおっしゃったと何かで読んだ。アウトプットする最終段階ではそうかもしれない。しかし、その過程では雰囲気も重要ではないか。20世紀初頭のパリやウィーンで、若い画家や音楽家たち一人一人が創造的だったのは、共有した雰囲気の影響も大きかったはずだ。出身医局に精神病理学のせの字もなかった評者には、羨望のせの字しかない。
書かれていることは、当然、レベルが高い。少し驚いてしまう文体──評者はなぜか掟ポルシェや杉作J太郎を思い出したのだが、なんだか謝った方がいい気がしてきたので、すいません、小林先生──に惑わされてはいけない。付箋だらけになった本書から一つご紹介すると、うつ病患者が「〜できない」と依存的になることについてKraus, Aが述べた概念(p.143-144)。「躁うつ病と対人行動」で確かにヒステリーを論じている箇所があるが、初めて読んだ時、その重要性に評者はピンとこなかった。本書で、なるほどこういうことだったのかと勉強になった。この概念と機序を知っておくと、ちょっとでも面倒な出来事があると絶対に誰かが口にする「依存的」の一言であっという間に病棟が陰性感情に覆われた時、「いや、あれは微小妄想が背景にあるという考え方もあるんだから、慎重に対応しないとまずいよ」とスタッフたちに説明できる。
ありがたいことである。
他にも研修医はピンとこないであろうDepression sine Depressionが、さらっと節のタイトルになっていたりする(p.122)。そして等張性(p.285)!
小林先生が野間先生に悔しい思いをなさった(p.65)のと同じ意味で悔しかったです、小林先生……。
ところで評者の下世話な興味は、本書が書店のどの棚に置かれるかである。
最も驚いたのは、某書店で内海先生の三島論が、日本史の棚に置いてあったことだった。
本書は、東浩之さんと内田樹さんの近著に挟まれ、思想の棚に置かれているのを想像するのだがどうだろう。都内の大型書店パトロールをする時の愉しみにしたい。
最後、拝読し終わり、はたして自分は小林先生のように「ときる」(p.163)ことができているだろうかと、「焦燥」(p.252)の中に放り込まれた。
精進します。小林先生。
<日本病跡学雑誌 第106号、2024年3月発行、日本病跡学会、p89-90より許可を得て転載>
日本病跡学雑誌の購入はこちら(外部サイトに移動します)
精神病理学者の本というと、たとえば木村敏の『分裂病の現象学』や宮本忠雄の『妄想研究とその周辺』のように、弘文堂から上製・函入りで刊行された格調高い書物をイメージする人も多いだろう。『分裂病の現象学』は筑摩書房で文庫化もされたが、やはりあの「函から本を取り出す」という行為が重要であって、これから自分は精神病理学の本を紐解くのだぞ、と襟を正す手筈を踏むかどうかは読書体験にも少なからぬ影響を与える。たとえ函入りでなかったとしても、ソフトカバー(並製)ではいけない。硬い表紙のハードカバー(上製)でなければ「感じ」がでないのである。
本書は、著者が1996〜2023年にかけて執筆したうつ病論をまとめた論文集である。同じ著者による統合失調症論集である『行為と幻覚』(金原出版)が刊行されたのは2011年のことであるから、ちょうどそれから干支が一回りしたことになる。『行為と幻覚』もソフトカバーであったが、本書『うつ病ダイバーシティ』はそれに加えて、収録されている精神病理学の論文をかなりユーモラスな筆致でリメイクしており、読みながら思わず何度も笑ってしまうようなつくりになっている。精神病理学の本で大笑いしたのは初めて、という体験をする読者も少なくないだろう。ちなみに、著者はもう1つの専門である音楽家の病跡学の本については2冊ともハードカバーで出しているけれども、やはり本格的な病跡学はまだまだハードカバーじゃないと「感じ」が出ないのかもしれない。
もっとも、見かけに反して、書かれてある内容は本格的である(そもそも、元の論文はいずれも専門誌に出た精神病理学の論文である)。師である宮本忠雄の衣鉢を継いで、躁とうつの本態を混合状態に見定め、さらには妄想や焦燥や自己臭を現象学的・人間学的に捉える論述は、多くのことを教えてくれるだろう。しかも、この本のつくりである。いままで「お高くとまった」感じのする精神病理学を敬遠していた人々にも訴求し、あらたな読者を獲得することだろう。
けれども、やはり時代は変わってしまったのだ、という感覚を抱かざるをえない。いつの頃からか、精神病理学のハードカバーの本はほとんど出なく(売れなく?)なった。評者自身も含め、精神病理学の若手はどこかコミカルであり、どこかに「なんちゃって」感があることを隠すことができない。おそらく著者は、精神病理学が「本格派」ではありえなくなった時代に、一体何をなしえるのかをそのスタイルによって問うているのだろう。本書が精神病理学における「本流」であった統合失調症ではなくうつ病を対象としていること、しかもその「本質」ではなく「ダイバーシティ」をタイトルに掲げていることは、この学の置かれた状況と、その状況のなかでいかにして火をともし続けることができるのかという困難への応答なのである。
<精神医学 Vol.66 No.2、2024年2月号、医学書院、p227より転載>
評者:佐藤晋爾(筑波大学 茨城県地域臨床教育センター精神科 教授)
シン・うつ病の教科書、もとい、治療論と精神病理学の幸せな結婚
目を引くイラスト。ざらついた質感のソフトカバー。
異なる紙質で交互に綴じられ、明朝体と柔らかなゴシック体がまざった本文。
意図的に意味をずらしたイラスト。
あれ、今、俺が持っている本は晶文社かミシマ社のだっけ?と誤解しそうな装丁。
医学書売り場で確実に異彩を放ち、存在感をもつに違いない。
精神病理学の著作は、ある疾患や症候の、本質または機序が主題になると思うが、本書はそうではない。うつ病の主要・関連症状である不安、強迫、自己臭、ヒステリー、妄想などを、各論的に丁寧な精神病理学的説明を行って診断・治療と結びつける。そこに、小林先生が大変「苦痛」だったというマクラ話が挟まる。ちなみに、各章はほとんど元論文があるのだが、比較するとほぼ書下ろしといってよいくらい重要なことを落とさずに修正されている。どれだけのご苦労だっただろう。
もちろん各論だけではない。宮本先生門下の諸先生方にとって重要であろう、混合状態概念が脊骨/「脊椎」として本書を貫いている。小林先生はその中でも不安に注目なさっていると思う(刻の章、臨床精神病理42 (1), 2021)。うつの精神病理は時間に関心が向きがちだが、不安を、DSMのつまらない併存概念でなく、広瀬先生のスペクトラム概念でもなく、本格的に論じたうつの精神病理学的考察は少ないのではなかろうか。
また、本書ほど治療を強く意識した精神病理学の本を、不勉強を棚にあげるが、評者はあまり読んだ記憶がない……と書くのは精神病理学の本を誉める時の常套句だが、本書については、評者は本気である。もしかして、このような本は今まで無かったのではないか、そうなんだよなあ、こういう精神病理学の本を読みたかったんだよなあと、改めて思い至った。
今現在、普通に臨床をやっていれば薬物療法を避けることはできない。そして、精神病理学に関する著作で、これだけ詳しく薬物療法に触れている類書はないと思う。たとえば、躁とうつを平面(2次元)上の波でなく、異なる次元にあると考えるのが精神病理学的には正確かもしれない。しかし、薬物療法では、本書のように敢えて素朴に上下する波と考えた方が実践的である。実際、「あの患者さん、olanzapineか何かで少し〈抑え〉ないと危なくない?」「もう一息なんだけど、SNRIに切り替えれば、ちょっと〈上がる〉かなあ」などの発言は、普通に医局で交わされている(と思う)。ただ、上下の拮抗だけで考えるのは臨床では危なっかしく、moodをstabilizeするために何かを足さなければならない。その何か、つまり“mood stabilizer”を精神病理学的にどう考えればいいか。そうか、小林先生、そのご説明で一発ですね……(p.89)。もちろん、薬物だけでなく、特定流派ではない日常的な意味での精神療法や対応のヒントもちりばめられている。
小林先生のたとえ話は大変に分かりやすい。患者さんや、ちょっとアレな研修医に症状の違いを説明するのに大変に重宝する。たとえば強迫と常同/こだわりの違いを「不安がー」「自我がー」と大仰に説明せず(もちろん説明してもいいのだが)、本書を一読なされば傑作な比喩を使って伝えられる(p.195)。この部分は、きっと小林先生がウンウン唸ってお考えになった(か、風呂かトイレで思いつかれた)ものだと思うので、本書をお読みください。評者は、最初に目にした時は声を出して笑ってしまい、直後に「なるほど」とちょっと感動した。
さらに本書は〈自治医科大学派うつ病論概説〉でもある。というのも、本書の邦文引用文献の多くが自治医科大学の錚々たる先生方のものなのである。うつが統合失調症より自閉的であると論じる際、木村敏先生の論文を引用しがちだと思うが、本書ではしびれることに宮本先生のご論文である(p.12)。
ある伝統のもとで考えを深めるとはこういうことなのだ。精神病理学は一人で行うものだと木村先生がおっしゃったと何かで読んだ。アウトプットする最終段階ではそうかもしれない。しかし、その過程では雰囲気も重要ではないか。20世紀初頭のパリやウィーンで、若い画家や音楽家たち一人一人が創造的だったのは、共有した雰囲気の影響も大きかったはずだ。出身医局に精神病理学のせの字もなかった評者には、羨望のせの字しかない。
書かれていることは、当然、レベルが高い。少し驚いてしまう文体──評者はなぜか掟ポルシェや杉作J太郎を思い出したのだが、なんだか謝った方がいい気がしてきたので、すいません、小林先生──に惑わされてはいけない。付箋だらけになった本書から一つご紹介すると、うつ病患者が「〜できない」と依存的になることについてKraus, Aが述べた概念(p.143-144)。「躁うつ病と対人行動」で確かにヒステリーを論じている箇所があるが、初めて読んだ時、その重要性に評者はピンとこなかった。本書で、なるほどこういうことだったのかと勉強になった。この概念と機序を知っておくと、ちょっとでも面倒な出来事があると絶対に誰かが口にする「依存的」の一言であっという間に病棟が陰性感情に覆われた時、「いや、あれは微小妄想が背景にあるという考え方もあるんだから、慎重に対応しないとまずいよ」とスタッフたちに説明できる。
ありがたいことである。
他にも研修医はピンとこないであろうDepression sine Depressionが、さらっと節のタイトルになっていたりする(p.122)。そして等張性(p.285)!
小林先生が野間先生に悔しい思いをなさった(p.65)のと同じ意味で悔しかったです、小林先生……。
ところで評者の下世話な興味は、本書が書店のどの棚に置かれるかである。
最も驚いたのは、某書店で内海先生の三島論が、日本史の棚に置いてあったことだった。
本書は、東浩之さんと内田樹さんの近著に挟まれ、思想の棚に置かれているのを想像するのだがどうだろう。都内の大型書店パトロールをする時の愉しみにしたい。
最後、拝読し終わり、はたして自分は小林先生のように「ときる」(p.163)ことができているだろうかと、「焦燥」(p.252)の中に放り込まれた。
精進します。小林先生。
<日本病跡学雑誌 第106号、2024年3月発行、日本病跡学会、p89-90より許可を得て転載>
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