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病気であって病気じゃない
気鋭の精神科医による、病いの正体をめぐる「新・病気論」
精神科は実体のない病気を扱う診療科である。それゆえに、「病気である」「病気ではない」という判断をする場面で精神科医と患者はときにすれ違う。本書では、精神科診療における「病気」の概念を、さまざまな階層で述べていくことで、精神科医と患者の間で起きているすれ違いを臨床的に解きほぐしていく。そしてその先に、この「病気か否か」という二元論を克服することを提案したい。つまり、私たちが診ている人はいったんすべて「病気であると同時に、病気ではない」という概念を持ち込んでみる、という提案である。
学術と創作の境界が溶けゆく長い思考の旅へようこそ。
【関連書籍】偽者論
学術と創作の境界が溶けゆく長い思考の旅へようこそ。
【関連書籍】偽者論
第1部 病気には実体がない
1 「病気」という言葉から連想されるもの
一般の人の持つ「病気」のイメージ
1.診断されたら「病気」
2.受診をしたら「病気」
3.検査で異常があれば「病気」
4.薬を飲んだら「病気」
5.自分でそう思ったら「病気」
6.普通でなければ「病気」
精神科医の持つ「病気」のイメージ
1.操作的診断で診断されるものが「病気」
2.生物学的基盤のあるものが「病気」
3.「反応」か「病気」か
2 病気であると扱うこと・扱われること
精神科医が患者を「病気」として扱うということ
複雑な現象を単純化する
病気と伝える意味
精神科診療に病名は必要か
患者が精神科医から「病気」と扱われること
病気として扱われることによる影響
3 病気じゃないと扱うこと・扱われること
精神科医が患者を「病気じゃない」と扱うこと
患者が精神科医から「病気じゃない」と扱われること
第2部 病気であって病気じゃない─理論編
1 精神科医が「病気であって病気じゃない」と考える効能
「病気であって病気じゃない」という概念
A−Tインテグレーション(?)
2 内科において「病気であって病気じゃない」と考えることの意味
器質的な疾患と機能性の疾患
3 一般の人が「病気であって病気じゃない」と考えることの意味
患者に「病気であって病気じゃない」と伝えること
わたしたちのなかにある健康な部分と病的な部分
4 病気や病名を巡るコミュニケーションが象徴的になること
「病名」によって精神科医と患者がすれ違うとき
不調を認知させるツールとしての病名
第3部 病気であって病気じゃない─実践編
1 ADHDの新卒男性は、病気であって病気じゃない
2 HSPを自称する地雷系女子は、病気であって病気じゃない
3 誹謗中傷キッズは、病気であって病気じゃない
4 典型的な双極症I型は、病気であって病気じゃない
5 トーキョー後遺症は、病気であって病気じゃない
6 教え子に振り回される大学院生は、病気であって病気じゃない
7 認知症の家族は、病気であって病気じゃない
8 あなたが「病気であって病気じゃない」かどうかは知らない
あとがき―長い独り言
1 「病気」という言葉から連想されるもの
一般の人の持つ「病気」のイメージ
1.診断されたら「病気」
2.受診をしたら「病気」
3.検査で異常があれば「病気」
4.薬を飲んだら「病気」
5.自分でそう思ったら「病気」
6.普通でなければ「病気」
精神科医の持つ「病気」のイメージ
1.操作的診断で診断されるものが「病気」
2.生物学的基盤のあるものが「病気」
3.「反応」か「病気」か
2 病気であると扱うこと・扱われること
精神科医が患者を「病気」として扱うということ
複雑な現象を単純化する
病気と伝える意味
精神科診療に病名は必要か
患者が精神科医から「病気」と扱われること
病気として扱われることによる影響
3 病気じゃないと扱うこと・扱われること
精神科医が患者を「病気じゃない」と扱うこと
患者が精神科医から「病気じゃない」と扱われること
第2部 病気であって病気じゃない─理論編
1 精神科医が「病気であって病気じゃない」と考える効能
「病気であって病気じゃない」という概念
A−Tインテグレーション(?)
2 内科において「病気であって病気じゃない」と考えることの意味
器質的な疾患と機能性の疾患
3 一般の人が「病気であって病気じゃない」と考えることの意味
患者に「病気であって病気じゃない」と伝えること
わたしたちのなかにある健康な部分と病的な部分
4 病気や病名を巡るコミュニケーションが象徴的になること
「病名」によって精神科医と患者がすれ違うとき
不調を認知させるツールとしての病名
第3部 病気であって病気じゃない─実践編
1 ADHDの新卒男性は、病気であって病気じゃない
2 HSPを自称する地雷系女子は、病気であって病気じゃない
3 誹謗中傷キッズは、病気であって病気じゃない
4 典型的な双極症I型は、病気であって病気じゃない
5 トーキョー後遺症は、病気であって病気じゃない
6 教え子に振り回される大学院生は、病気であって病気じゃない
7 認知症の家族は、病気であって病気じゃない
8 あなたが「病気であって病気じゃない」かどうかは知らない
あとがき―長い独り言
はじめに
精神科というのは、実体のない病気を扱う診療科です。内科や外科であれば、目でみれば病気であることが分かります。顔が真っ黄色だとか、足が浮腫んでいるとか、血を吐いているとか、見た目に明らかです。肉眼で見て分からない病気についても、画像検査で異常な部分が可視化できたり、検査値の異常で病態を推定できたりします。
しかし、精神疾患は目にみえません。可視化したり病態を推定したりする検査もありません。ただ患者さんの言っていることや様子から、あるタイプの病的精神状態にあるのだろうと判断するしかないのです。
そういったあやふやなものを扱っているわけですから、そもそも精神疾患など存在するのか、と考える人がいるのも無理ないでしょう。現在では主流とは言えませんが、反精神医学という考えが注目を集めた時期がありました。と、さもその時代を知っていたかのようなベテラン医師風の口調で呟いてしまいましたが、私も医師になって10年程度しか経っていないので、リアルタイムでは知らない時代の話です。
現在のところ、精神疾患というものはとりあえず存在はすると考えるのが常識的です。昔からある議論ですが、より脳神経疾患に近い立場で精神疾患を考える立場と、より心理的な問題として精神疾患を考える立場があり、今のところ決着はついていません。今後もつくことはないでしょう。
脳神経疾患のように精神疾患を考えるというのは、たとえば脳のある部位に異常をきたすことで◯◯障害を発症する、みたいに考えるということです。たとえば神経梅毒という病気はもともと精神疾患と思われていましたが、梅毒トレポネーマの存在が知られたことで、器質疾患であることが分かりました。この延長線上で、すべての精神疾患について説明できるという立場があり、わりと今現在はこちらの立場のほうが精神医学の世界では主流という気がします。ただ、そこまで単純な話ではないでしょう。
心理的な問題として精神疾患を考えるというのは、簡単にいえば、精神疾患は心の動きによって起こると考える立場です。たとえば恋というのは心の動きによって起こるものであって、脳の異常で起こるものではおそらくないですよね。先輩に恋をした結果(先輩とは)、一過性に脳が生理学的・生化学的に異常をきたすことはあるかもしれませんが、その逆はなさそうです。これと同じように、たとえば職場で上司に毎日パワハラを受けているうちに、会社に向かう東急東横線で涙が出てきて、動悸・過呼吸が生じ、何もかもやる気がなくなって綱島駅あたりで下車してしまうみたいな人がときどきいて、こういう人は精神科を受診して「適応障害」という病名をつけられるわけですが、これは心の動きで説明されることが多いでしょう。一方で、神経梅毒の発症が心の動きだけで説明できないように、一部の精神疾患は心の動きだけで説明するのは難しそうです。
さて、われわれ精神科医は患者さんの様子のなかから、星座を読み取るようにして実体のない精神疾患を診断するわけですが、実体がないがゆえに、自分の診断が正しいことを証明もできないですし、自信も持ちようがありません。同じ考えの基盤を持っている同僚の精神科医に対しては自信を持って診断名を言えたとしても、つけられた病名に納得できない患者さんを説得するのは難しいでしょう。
患者さんが「私は病気じゃない」といい、精神科医が「あなたは病気です」といったとき、必ずしもその意見のすれ違いは精神科医の勝利に収束するわけではありません。病気である根拠も、病気ではない根拠も薄弱だから、いくら精神医学的には精神科医の言っていることが正しくても、現場ではただの意見が違うふたりが平行線の議論をしているだけになります。
「病気」か「病気じゃない」かという議論をするとき、現場ではその論を立証することができません。もちろん学術的な場ではできるわけですが、患者さんとふたりの場では、前提となる知識を共有できていないために「信じる」「信じない」の問題になってしまいがちです。主治医が「病気」だと言ったから、主治医がつけた「病名」だから、信じてくれるというわけではまったくない。TikTokでこの世の終わりみたいな踊りをしながら病気の解説をしている人(がいるかどうかは知りませんが)のほうが親近感が湧いてむしろ信じるに値する、と考える患者さんも稀ならずいるでしょう。
さらに、精神科の現場では、すべてのやり取りされた言葉が、字義通りの意味を持っているわけではありません。「私の病名は一体なんなのでしょうか」という言葉を発している患者さんが、必ずしも自分の病名を知りたいわけではありません。そういう言葉を発することによって、実際のところは「あなたの診療が不安です」と象徴的に言っていることがあるわけです。だから「ええと、あなたの病名は全般性不安障害です」と返答するのが適切ではないことがある。診察室での「病気」かどうか、というやりとりには、特にそういった構造的な意味を読まないといけない場面が多くあります。
本書では、精神科診療における「病気」を、さまざまな階層で述べていくことで、患者と精神科医の間で起きているもろもろの事象を臨床的に解きほぐしていきたいと思います。この分野において「病気」とは何かについて述べられた『精神医学と疾病概念』(臺 弘・土居健郎編、東京大学出版会、1975)というとても好きな本があります。この書籍のように精神科医のなかでの侃侃諤諤の議論というのはしばしばなされてきたことと思うのですが、いざ現場に出ると、その学問知が患者さんの「私はそうは思いません」という一言で吹き飛ぶ場面を何度も見ました。患者さん側が一体「病気」をどう考えているか、そして「病気」という言葉を使って精神科医と患者の間で一体なにが起きているのか、「病気」についてはここまで議論することが、真に生きた知に繋がるのではないかと思ったのが本書を書き始めた初期衝動です。
そして、解きほぐした先にこの本で私が言いたいことはただひとつで、それは「病気」か「病気じゃない」かという議論に「病気であって病気でない」という概念を持ち込んでみるという提案です。
「病気であって病気じゃない」
私たちが診ている人はすべて「病気であって病気じゃない」とまず考えてみる。どういうことやねんと関西方面の言葉で述べたくなるかもしれませんが、この疑問は最後までお読みいただいたときにきっと氷解するものと思っています。
まず、第1部では、「病気」という言葉が、患者と精神科医それぞれにどのように認識されているのかということについて考え、「病気」であると扱うこと、扱われること、また逆に「病気じゃない」と扱うこと、扱われることについて、考えてみたいと思います。
第2部では、「病気であって病気じゃない」という概念について、患者、あるいは一般の人の立場と、精神科医の立場から考え、その実践における有用性について考えてみます。
最後に第3部では、実践編と題して、「病気であって病気じゃない」を実際の場面でどう使うか、シナリオ形式で扱ってみます。第1部から読んでいただくように書いてはいますが、ごちゃごちゃ書いていてだるいなと思ったら第3部から読んでもらってもいいかもしれません。
本書は医療従事者に限らず、誰に読んでもらってもよい内容になってはいますが、医者3〜5年目くらいの後期研修医に向かって話しかけるような感じで書くと一番言葉の出がいいなと思ったので、形式上そうさせてもらいます。2024年4月から大学病院で後期研修医たちと一緒に仕事をする立場になるので、その予行演習的な意味も私のなかではあるのかもしれません。「『病気であって病気じゃない』って何すか? 矛盾してますけど」とか賢い後期研修医に論破され、悲しみにくれながらTikTokでこの世の終わりのような踊りをしている自分が容易に想像できます。
まだ書いている私ですらその正体の分からない「病気であって病気じゃない」を解き明かすための、少し長い独り言にどうぞお付き合いいただけると嬉しいです。
尾久 守侑
精神科というのは、実体のない病気を扱う診療科です。内科や外科であれば、目でみれば病気であることが分かります。顔が真っ黄色だとか、足が浮腫んでいるとか、血を吐いているとか、見た目に明らかです。肉眼で見て分からない病気についても、画像検査で異常な部分が可視化できたり、検査値の異常で病態を推定できたりします。
しかし、精神疾患は目にみえません。可視化したり病態を推定したりする検査もありません。ただ患者さんの言っていることや様子から、あるタイプの病的精神状態にあるのだろうと判断するしかないのです。
そういったあやふやなものを扱っているわけですから、そもそも精神疾患など存在するのか、と考える人がいるのも無理ないでしょう。現在では主流とは言えませんが、反精神医学という考えが注目を集めた時期がありました。と、さもその時代を知っていたかのようなベテラン医師風の口調で呟いてしまいましたが、私も医師になって10年程度しか経っていないので、リアルタイムでは知らない時代の話です。
現在のところ、精神疾患というものはとりあえず存在はすると考えるのが常識的です。昔からある議論ですが、より脳神経疾患に近い立場で精神疾患を考える立場と、より心理的な問題として精神疾患を考える立場があり、今のところ決着はついていません。今後もつくことはないでしょう。
脳神経疾患のように精神疾患を考えるというのは、たとえば脳のある部位に異常をきたすことで◯◯障害を発症する、みたいに考えるということです。たとえば神経梅毒という病気はもともと精神疾患と思われていましたが、梅毒トレポネーマの存在が知られたことで、器質疾患であることが分かりました。この延長線上で、すべての精神疾患について説明できるという立場があり、わりと今現在はこちらの立場のほうが精神医学の世界では主流という気がします。ただ、そこまで単純な話ではないでしょう。
心理的な問題として精神疾患を考えるというのは、簡単にいえば、精神疾患は心の動きによって起こると考える立場です。たとえば恋というのは心の動きによって起こるものであって、脳の異常で起こるものではおそらくないですよね。先輩に恋をした結果(先輩とは)、一過性に脳が生理学的・生化学的に異常をきたすことはあるかもしれませんが、その逆はなさそうです。これと同じように、たとえば職場で上司に毎日パワハラを受けているうちに、会社に向かう東急東横線で涙が出てきて、動悸・過呼吸が生じ、何もかもやる気がなくなって綱島駅あたりで下車してしまうみたいな人がときどきいて、こういう人は精神科を受診して「適応障害」という病名をつけられるわけですが、これは心の動きで説明されることが多いでしょう。一方で、神経梅毒の発症が心の動きだけで説明できないように、一部の精神疾患は心の動きだけで説明するのは難しそうです。
さて、われわれ精神科医は患者さんの様子のなかから、星座を読み取るようにして実体のない精神疾患を診断するわけですが、実体がないがゆえに、自分の診断が正しいことを証明もできないですし、自信も持ちようがありません。同じ考えの基盤を持っている同僚の精神科医に対しては自信を持って診断名を言えたとしても、つけられた病名に納得できない患者さんを説得するのは難しいでしょう。
患者さんが「私は病気じゃない」といい、精神科医が「あなたは病気です」といったとき、必ずしもその意見のすれ違いは精神科医の勝利に収束するわけではありません。病気である根拠も、病気ではない根拠も薄弱だから、いくら精神医学的には精神科医の言っていることが正しくても、現場ではただの意見が違うふたりが平行線の議論をしているだけになります。
「病気」か「病気じゃない」かという議論をするとき、現場ではその論を立証することができません。もちろん学術的な場ではできるわけですが、患者さんとふたりの場では、前提となる知識を共有できていないために「信じる」「信じない」の問題になってしまいがちです。主治医が「病気」だと言ったから、主治医がつけた「病名」だから、信じてくれるというわけではまったくない。TikTokでこの世の終わりみたいな踊りをしながら病気の解説をしている人(がいるかどうかは知りませんが)のほうが親近感が湧いてむしろ信じるに値する、と考える患者さんも稀ならずいるでしょう。
さらに、精神科の現場では、すべてのやり取りされた言葉が、字義通りの意味を持っているわけではありません。「私の病名は一体なんなのでしょうか」という言葉を発している患者さんが、必ずしも自分の病名を知りたいわけではありません。そういう言葉を発することによって、実際のところは「あなたの診療が不安です」と象徴的に言っていることがあるわけです。だから「ええと、あなたの病名は全般性不安障害です」と返答するのが適切ではないことがある。診察室での「病気」かどうか、というやりとりには、特にそういった構造的な意味を読まないといけない場面が多くあります。
本書では、精神科診療における「病気」を、さまざまな階層で述べていくことで、患者と精神科医の間で起きているもろもろの事象を臨床的に解きほぐしていきたいと思います。この分野において「病気」とは何かについて述べられた『精神医学と疾病概念』(臺 弘・土居健郎編、東京大学出版会、1975)というとても好きな本があります。この書籍のように精神科医のなかでの侃侃諤諤の議論というのはしばしばなされてきたことと思うのですが、いざ現場に出ると、その学問知が患者さんの「私はそうは思いません」という一言で吹き飛ぶ場面を何度も見ました。患者さん側が一体「病気」をどう考えているか、そして「病気」という言葉を使って精神科医と患者の間で一体なにが起きているのか、「病気」についてはここまで議論することが、真に生きた知に繋がるのではないかと思ったのが本書を書き始めた初期衝動です。
そして、解きほぐした先にこの本で私が言いたいことはただひとつで、それは「病気」か「病気じゃない」かという議論に「病気であって病気でない」という概念を持ち込んでみるという提案です。
「病気であって病気じゃない」
私たちが診ている人はすべて「病気であって病気じゃない」とまず考えてみる。どういうことやねんと関西方面の言葉で述べたくなるかもしれませんが、この疑問は最後までお読みいただいたときにきっと氷解するものと思っています。
まず、第1部では、「病気」という言葉が、患者と精神科医それぞれにどのように認識されているのかということについて考え、「病気」であると扱うこと、扱われること、また逆に「病気じゃない」と扱うこと、扱われることについて、考えてみたいと思います。
第2部では、「病気であって病気じゃない」という概念について、患者、あるいは一般の人の立場と、精神科医の立場から考え、その実践における有用性について考えてみます。
最後に第3部では、実践編と題して、「病気であって病気じゃない」を実際の場面でどう使うか、シナリオ形式で扱ってみます。第1部から読んでいただくように書いてはいますが、ごちゃごちゃ書いていてだるいなと思ったら第3部から読んでもらってもいいかもしれません。
本書は医療従事者に限らず、誰に読んでもらってもよい内容になってはいますが、医者3〜5年目くらいの後期研修医に向かって話しかけるような感じで書くと一番言葉の出がいいなと思ったので、形式上そうさせてもらいます。2024年4月から大学病院で後期研修医たちと一緒に仕事をする立場になるので、その予行演習的な意味も私のなかではあるのかもしれません。「『病気であって病気じゃない』って何すか? 矛盾してますけど」とか賢い後期研修医に論破され、悲しみにくれながらTikTokでこの世の終わりのような踊りをしている自分が容易に想像できます。
まだ書いている私ですらその正体の分からない「病気であって病気じゃない」を解き明かすための、少し長い独り言にどうぞお付き合いいただけると嬉しいです。
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